2026年04月25日

理解と共感についてまだ考えている

先日本で読んだ「書き手は読者に“共感”を求めることはできない、読まれる際のゴールはあくまで“理解”に設定すべきだ」という旨の文章を読んで思ったことを数日前のブログに記したけれど、あれからしばらく経ってもまだ“理解”と“共感”について考えている。むずかしい顔をして思考しているわけでは全然なくて、すごく身近なところにも“理解”と“共感”の境界線みたいなものがあるような気がして、それについて考えている。

僕は音楽のサブスクはSpotifyもApple MusicもYoutube Musicも活用しているけれど、そこで良いものを見つけるとレコードやCDをすぐに手に入れようとする。もしかしたらそれは旧態然とした所有欲なのかもしれないけれど、“理解”を越えて“共感”した音楽を手元に置いておきたいって思ってしまうのだ、やっぱり。自分にとっては図書館も同じような存在で、最近は昔みたいに本をたくさん読まなくなってしまったけれど、気になったり気に入ったりした本は棚に置いておきたくなる。共感とは享受することかもしれない、とも思う。理解とは「なるほど」と認識することなのかな。うまく言えない。

ガイドブックや写真で知ることと実際にそのものを五感で感じることの違い、それも理解と共感の境界線だ。芸術、美術、料理、旅行、全部同じことのように思う。頭で知り分かることと身体で感じることの違い?もう少し的確な言葉があるような気もする。

吉祥寺キチムで、ナタリーワイズのライブを初めて観た。高野寛さんとTOKYO No.1 SOUL SETのBIKKEさん、undercurrentの斉藤哲也さん、ヴァイオリン奏者の神田珠美さんによるユニット、結成26年と銘打たれたライブ、大盛況だった。僕の部屋のCD棚には四半世紀前に手に入れたナタリーワイズのCDが数枚あってその音楽性を“理解”しているつもりでいたのだけど、実際に初めて生演奏でその楽曲たちを聴いてみるとその“LIVE”な響きにハッとする。ピアノとバイオリンのアカデミックな旋律と文学的呟き・独白を、静謐で有機的なポップネスが繋いでいく。楽曲が盛り上がるときにBIKKEさんがリーディングする声が少し演奏に埋もれそうになるところに意識を研ぎ澄ましている耳、生ピアノが鳴らされるときのコツコツという打音、弦楽器のきしみ、息を飲むような客席の反応。ライブとはこのように“共感=享受”だなと感じて静かに感動した。帰ってきてからは同じCDが違うふうに聴こえるからとても不思議。

理解と共感についてはまだもう少し考えてみたいと思う。面白い。

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Posted by monolog at 23:47│Comments(0) │